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山田亘 (写真家) : ミニ英和和英辞書
山田亘 (写真家)[やまだ こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [しゃ]
 【名詞】 1. photograph 2. copy 3. transcribe 4. duplicate 5. reproduce 6. trace 7. describe 8. picture 
写真 : [しゃしん]
 【名詞】 1. photograph 
写真家 : [しゃしんか]
 (n) photographer
: [まこと, しん, ま]
  1. (adj-na,n) (1) truth 2. reality 3. genuineness
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

山田亘 (写真家) : ウィキペディア日本語版
山田亘 (写真家)[やまだ こう]
山田 亘(やまだ こう、1964年2月6日 - )は日本の写真家メディアアーチスト名古屋を活動の拠点としている。 写真作品のみならず、新聞や本のプロジェクト、またそれらを使用したメディアパフォーマンスサウンドインスタレーションやライブと幅広く活動の領域を拡げている。
写真作品では、目に見えない「個」の範囲を捉えることをテーマとしており、2004年の「さよならの押し花」Specimen of good-byes 以降は「そこにいないということ--不在」を中心のテーマに据えている。そこにいない人について多数の人間が断片的に話しかけてくる2010年のサウンドインスタレーション「君の不在について」dialogues on your absence においてもそのテーマは一貫しており。様々な媒体の社会的な意味合いや位置づけを利用しながら、人のあり方をとらえるための方法を遊びながら模索している。
== 経歴 ==
1964年2月、天文学者であり天文教育普及に務めた山田卓の長男として愛知県名古屋市に生まれる。名古屋市立橘小学校、川名中学校、名古屋市立向陽高等学校を卒業後、英語専門学校(駿台ELS英語学院)を経て渡米、米国オハイオ州立オハイオ大学及びオハイオ大学大学院芸術学部写真学科を卒業後、アメリカで作家活動を開始。1993年にはアメリカ写真協会(American Photography Institute)主催の全米20名選抜のNational Graduate Seminer のフェローシップを受けニューヨーク大学において展覧会及び集中セミナーに参加、その後同じくフェローシップセミナーに選抜されていた写真家Osamu James Nakagawa、Bill Thomasの誘いを受けテキサス州ヒューストンに移住した。同年テキサス州知事賞。1994年にはヒューストン国際写真フェスティバル(FOTO FEST)のサテライト展覧会として初の個展。このとき展覧会を見たブラジルの写真家マルコス・サンティリに招かれて1995年にブラジルサンパウロの第2回サンパウロ国際写真ミーティングにおいて個展を行った。1995-94年 ヒューストン写真センター フェローシップアワード 1996年に帰国以降は1997年に東京都写真美術館において行われた第2回東京国際写真ビエンナーレで奨励賞、1998年には同館主催の企画展MEDIALOGUEに出品した。その頃から日本デザイナー芸術学院(旧日本デザイナー学院)、名古屋芸術大学、名古屋造形大学(旧名古屋造形芸術大学)などで講師を務めるようになり、現在も教育現場に携わっている。その後アメリカや1999年から2000年にかけてのドイツでの企画展FOTOKUNST AUS JAPAN (日本の現代写真)日本での個展、企画展覧会2001年 展等を経た後、2002年に開催された電子芸術国際会議2002名古屋(ISEA2002Nagoya)で事務局次長を務めたことをきっかけに、その活動領域を写真をベースとしたマルチメディア表現へと拡げている。2002年の年末には美術家、田中偉一郎との二人展「あとは若いおふたりで」(愛知県春日井市)2003年には美術館内で新聞社を運営し来館者のはじめて働いた時の記憶を取材する「労働記者クラブ」で日本「グッドデザイン賞2003」審査員特別賞(岐阜県多治見市現代陶芸美術館、ロドチェンコルームプロジェクトの一環として) 原初的な記憶を星座の神話のようなものとして聞き書きして編纂した「記憶の星座」(constellating Recollections) の本をパフォーマンスを組み合わせた、詩人、村田 仁 との共同プロジェクトをマサチューセッツのマウントホリヨーク大学で行っている。思い出すという行為の意味や位置づけを問い直すこれらの作品は、その後の作風に大きな変化をもたらしている。2007年から2年間、マレーシア国立のマラ工科大学の芸術学部写真学科の卒業制作の外部審査員を務めた。2008年にサウンドアートのCDに参加「二十一世紀精神」したことからサウンドパフォーマンスにも積極的に参加、「楽器工事」「Phono-Electus」といったサウンドユニットを組んで活動している。
2009年にはクリエイティブ・デザインシティなごや2009 において国際若手デザイナーワークショップのディレクターとして「名古屋なるへそ新聞」を企画。2010年の「あいちアートの森」展では人の不在を物語る声を使った写真作品とサウンドインスタレーションと組み合わせた映像サウンドインスタレーションを発表、本、新聞といった紙媒体のコンセプトを遊んだり、映像制作やパフォーマンスにも取り組み、あいちトリエンナーレの関連企画である「地熱の荒野新聞」において自身初の漫画連載「れんさい7コマまんが」では写真作品、「なんだかうれしい 」展では8000本の印鑑と朱肉を使った参加型の立体作品を発表している。ベルリンで毎年開催されているDMY INTERNATIONAL DESIGN FESTIVAL (2011)においては都市の変遷のシミュレーションとしての新聞ワークショップ企画「Berliner Naruheso Weltzeitung (ベルリンなるへそ世界新聞)」を発表、運営している。作品やそのプロジェクトは日本国内、ブラジル、アメリカ、ドイツ、タイ、マレーシア等や、セカンドライフの様なバーチャル スペースでまでも幅広く展示、公開されている。Mediaselect会員、日本映像学会 会員。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「山田亘 (写真家)」の詳細全文を読む




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